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【本の感想】ポール・オースター『リヴァイアサン』

本当にたまにしか小説を読まないけど、タブッキと並んで小説を沢山読みたいなーと思わせてくれた作家、オースター。本作もとても楽しめた。

リヴァイアサン (新潮文庫)

リヴァイアサン (新潮文庫)

 

目次

あらすじ

一人の男が道端で爆死した。製作中の爆弾が暴発し、死体は15mの範囲に散らばっていた。男が、米各地の自由の女神像を狙い続けた自由の怪人(ファントム・オブ・リバティ)であることに、私は気付いた。FBIより先だった。実は彼とは随分以前にある朗読会で知り合い、一時はとても親密だった。彼はいったい何に絶望し、なぜテロリストになったのか。彼が追い続けた怪物リヴァイアサンとは。謎が少しずつ明かされる。(amazonより)

 奇妙な友情というか、友情ってそもそも……

お話の語り手である作家のピーターとその友人でこちらも作家であるサックスの物語だ。もちろん他にも魅力的な登場人物が登場するけど、基本的にはこの二人の奇妙な友情の話だと思う。

友情や友人というものは何か曖昧で、お互いの関係を真剣に突き詰めてしまうのは身も蓋もないのではないかということを考えさせてくれる小説だった。

ここにいない誰かを語る、文体の妙

彼にとってそれはきっと、ひどく長い、壮絶な、苦しみにみちた旅路だったにちがいない。そのことを想うと、私は泣きたくなる。十五年のあいだにサックスは、自分という人間の一方の端からもう一方の端まで旅したのであり、その最後の地点にたどり着いたころには、おそらくもう、自分が誰なのかもよくわからなくなっていたのではないか。あまりに長大な距離が踏破され、どこから出発したのか、もはや覚えていようもなかっただろう。(『リヴァイアサン』26-27頁)

 

ここはテロリストとして爆死してしまったサックスに対する気持ちなんだけど、この文章がすごく効いていて、小説を読み終わるまで何度も思い出してしまった。

 

まだ30頁も読んでないのに、サックスとピーターの関係性も全然知らないのに、これから語られるってところなのに、既にここで涙腺が緩んでしまった。なんだかオースターの書くものは、誰かの心に突然ダイレクトに入り込んでしまったような、内面の一番脆くてやわい部分をいきなり掴まされてしまったような気持ちになる。

 

しかもサックスはミステリアスで掴みどころがないにもかかわらず、目の前にいるときにはだいたい明解な人物で、ユーモアがあって、お喋りで、不器用で器用で、とにかく魅力的な人物だ。そして、サックスが死んでしまった場面からはじまる本作は常に悲しげな雰囲気を漂わせている。サックスが素晴らしい人物であることがわかるほど、つらい。だってサックスはもういないのだ。

 

オースターはこういうもういない人物とか誰かの思い出を語らせたらピカイチの作家なんじゃないだろうか。

 

既に傍にいない誰か(家族、友人、知人etc...)について主人公が語ってくれるときの文体がとてもいい。本当に知り合いについての話を聞いてるみたいだし、人物の捉え方が好きだ。例えば、サックスの仕事ぶりについて語るところ。

十九世紀パリの遊歩者のごとく街なかをうろついて、気の向くままに好きなところへ出かけた。散歩をし、美術館やギャラリーに行き、昼間から映画を見て、公園のベンチで本を読んだ。他人と違って時計に縛られていないから、時間を無駄にしているという気になったりもしなかった。だからといって、大して仕事をしなかったわけではない。ただ単に、仕事と怠惰とを隔てる壁が彼の場合ほとんど崩れていて、そこに壁があることさえほとんど目に入らなかったのだ。(『リヴァイアサン』72頁)

サックスの行動について書いているところ(散歩に、美術館に、映画館に、講演に行きetc)まではふむふむそいう言う人物なんだなと読むんだけど、「仕事と怠惰とを隔てる壁が」で一気にそうなんだと納得してしまう。サックスってそういう人物なんだなと。

 

おもしろいのは、勤勉と怠惰ではなく、仕事と怠惰という対になっている部分だ。怠惰であるように見えることこそが、仕事なのであり、傍から見れば怠惰に見える態度ほどサックスの仕事の組み立てのなかで重要な部分を形づくってるのかもしれない。

勤勉以外の仕事の在り方とでもいおうか。

 

印象に残るエピソード

小説の本筋に一見関係のないエピソードが好きだ。

それはテレビドラマにしたときにはカットされてしまう部分だろう。

でも、語りに現れるなんてことないエピソードこそが、その人物が本当にいたんじゃないかってリアリティーを与えてくれる。

 

本作で忘れられないのは、サックスの実家に遊びにいったときに母親とサックスが語る自由の女神のエピソード。

母親とサックスと、知人の親子で、自由の女神観光に出掛けた。女神像のなかを階段を登っていくんだけど、王冠のところまで来てから先は手すりがなかった。そこでサックスの母親は思いがけずトラウマのような体験を得る。

 

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あのころはまだ松明のところまで入れてくれたんだよ。〔……〕行ってみたら、今度の階段は、さっきのと違って手すりがないんだよ。あんなに狭くて、くるくる回る鉄階段なんて見たことない。消防士の出動柱に出っぱりがついたって程度だね。女神の腕のすきまから試しに下を見ると、空中五百キロくらい上がった気分なんだ。まわりには何もなくて、まるっきりの虚空。〔……〕あたしは三分の二くらい進んだあたりで、これは駄目だと思った。(『リヴァイアサン』62頁)

このあとサックスの母親は階段から墜落するのではとパニックになり、それ以来高所恐怖症になったことを明かす。サックスは、これについて以下のようにコメントしている。

「それは僕にとって、政治理論に関するはじめての教訓だった」「自由というものが時に危険であることを僕は学んだ。気をつけないと、命を落とすことになりかねない」(『リヴァイアサン』63頁)

サックスは物書きとしても多少政治的な人物であるようだし、自由の女神はもちろん自由の象徴だし、サックスはどこかの街の自由の女神を爆破する途中で死んだのだから、とても示唆的なエピソードだ。

 

ただこのエピソードは個人的にすごく印象的で、私のような集中力のない読み手からしたらサックスが女神像を爆破していたという本筋よりもこちらのエピソードのほうが記憶に残るだろう。もちろん主題に深くかかわるエピソードではあるが。

 

オースターの本は、その本の中で自分がどこを重要に感じるのか選ばせてくれる感じがする。もちろん作家によって巧妙に女神像のエピソードに誘導されてはいるのだろうけど、個別の語り自体がとても魅力的なのだと思う。

 

一冊に多くの人の多くの人生が何層にも織り込まれてるような、そんな読書体験だった。次はオースターの一体どれを読もうか。